●大好きな人と痛みを共有出来たら…こんな嬉しいことは無いです。ばかばかしくもピュアでキュ−トな物語。皆さん、絶対観ましょう。何か元気でます。こんな私でも恋愛してもいいのね? って勇気もらいましたよ。何より「なつ」の愛し方があまりにも自分とシンクロしてしまいました。勝手にシンクロ。

 私は今度好きな方が出来たら『いたいふたり』を観せますね。私はこんな風に痛いけど大丈夫? って。そんな映画あんま無いです。

●ほんとやられました。
 イタイですよ。恋の病にかかってしまった女の子は。いったー。って思いますもん。恋が終わり冷静になった自分で自分を振り返って。恋に悩んでる友達の話しを聞いてる時。
 イタイ! ははは
 彼の一言一句に対して泣く、笑う、黙る、叫ぶ、!?
 彼の悲しい言動に一日を支配される事もある。あるでしょ?? おりこうさんな猫の様で、心の中にはきゃんきゃん吠えてる犬がいてたり。爆発、どっかーん。ってやつをいつも持ってます。起爆剤はたいてい彼!?
 この映画を観て女の子はイタイのは私だけじゃないのねって、安心して恋に爆進して下さい!

 つけ加えておきます。この映画はかなーり笑えます。意中男の子もしくは彼に見せてあげて下さい。笑いの涙の後、女の子ってこんなんかーって分かってもらえるはずです!

斎藤久志監督らしい小宇宙を形成している作品である、とともにこれまでとはちがう新しい世界を切りひらこうとしている異色作でもある。

 これまでの斎藤久志「らしさ」というのは、『COZY GARDEN』のような自主製作の短篇の数々に最も端的にあらわれていて、一般公開作『サンデイドライブ』でもそれがつらぬかれていたが、腰のすわったフィックス・ショットで人と人とのあいだの空気の微妙な変化を見つめること、その観察力というより感受性のたしかさから出てくるものであり、そうして見つめていると、日常的な行動のなかから突拍子もなく犯罪が生まれ出るというストーリーが、そのあとを追いかけてくる。

 日常的な空気はきめこまくとらえている、だが、なぜか──ものごとがあまりに突拍子もなく起こるからか、でもそれも現実の日常にあることなのだが──リアリスティックという感じとはまったくちがうところで、それは起こっている。リアリズムという様式のものではないのだ。むしろ抽象的にリアルを感じさせる。

 物語の類型からジャンル分けするならば、斎藤はこれまで独特なフィルム・ノワールをつくってきたといえる。

 『いたいふたり』はラブ・コメディーである。「ラブ・コメディー」というのは日本語だ。柳沢きみおのまんが『翔んだカップル』がヒットした‘70年代末ごろに、おもに略称ラブ・コメとして定着したのではなかったか。英語のロマンチック・コメディーとはちがう、もっと子供っぽい、ドタバタさわぎと、カップルを成立させ結びつきをふかめるための奇抜なアイデアが特徴のものだ。

 「奇抜なアイデア」は物語の最初からあらわれて、全体の構想を規定しなくてはならない。日常の空気のなかから徐々に犯罪が生まれてくるフィルム・ノワールとは逆になる。

 斎藤久志の「新しい世界」といったのは、だから、それもひとつの理由だ。

 「アイデア」というのは、『翔んだカップル』では男女の中学生が同じ家に二人だけで住まなければならなくなり、カップルとなっていく、といったシチュエーションづくりのことだ。テレビの『おくさまは18歳』では、高校教師と女生徒が新婚夫婦なのだが、それを秘密として死守しなければならないという卓抜なシチュエーションから無限にドタバタがひきおこされた。

 『いたいふたり』のアイデアは、愛しあう新婚夫婦である涼(西島秀俊)となつ(唯野未歩子)が、痛覚を共有してしまうというもの。いや、感覚だけではなく傷も同じものができてしまうのだ。

 このことをふたりは、秘密としてまもりぬこうというのではないが、到底、他人には理解されない現象であり、その意味ではふたりのこころの秘密だ。ふたりだけの秘密をもつことは、結びつきをつよめ、愛をふかめる。

 朝、先におきて出勤した妻が、職場で自分のほほをたたき、家でまだ寝ている夫へのモーニング・コールにする、なんていうたのしいギャグもできる。

 このふたりを理想のカップルと見て、将来の参考にするのか、あるいは単に姉が好きだからなのか、観察しているなつの弟、秋男(唯野友歩。実際に姉弟である)という存在があって、彼の視点からの、ノート・パソコン上での図像化もからめた一人称レポートがかわいいアクセントとなっている。

 こういう、別の視点の投入も斎藤作品ではおそらくはじめてのことで、これもラブ・コメという設定がもたらしたのかも知れない。

 ラブ・コメでは複数の(最少限でも4人か)の人物の愛の思惑がくいちがい、ぶつかりあう。これまでの斎藤作品のフィックス長まわしという方法でも、そえをとらえられなくはないが、ここでは彼はカットを割り、クローズアップをとらえる方法をとっていて、これも新しさの一つである。

 キャメラを『由美香』『流れ者図鑑』『白 THE WHITE』の北海道自転車旅3部作で知られる映画作家、平野勝之が担当し、彼ならではのするどい寄りや移動を見せている。一部『クルシメさん』の監督、井口昇がキャメラマンとして参加しているシーンもある。

 なつに片想いする木村(鈴木卓爾)、涼に恋する塾の生徒、小山(島野千尋)、それに秋男が、ふたりの家におしかけて、すったもんだするシーンのキャメラワークは特に見もの。小型ビデオならではの、なまなましいクローズアップのとらえかたといえるだろう。

 ちょっとジョン・カサヴェテスの映画を思わせるような、するどい表情のとらえかたである。

 こういう、てんやわんやの状況こそが、ラブ・コメの醍醐味の一つといえるが、これまでの作品も独特のフィルム・ノワールだったように、ラブ・コメもけっしてウェルメードなものを斎藤久志がつくるわけもなく、このすったもんだのシーンも妙な落着の仕方をする。

 終盤にむかってはシリアスな色がこくなり、ぼくとしては、よくわからない点もあった。涼がなぜ自分が死ぬと思いこむのか。

 しかし、全体としては大いにたのしんだ。公開されたらまた見たいと思う魅力がある。

 ここまでで名前のあがらなかったわき役陣も実に充実している。特に、不気味な画家役の原一男、少年とゲイの恋愛関係にある社長の廣木隆一等、映画作家の怪演、好演がめだつ。

 唯野未歩子は、斎藤久志とは短篇をふくめこれが11作目(ほかに芝居も1本ある)となり、現在の日本映画で最も魅力的な監督・女優のコンビだと思うが、彼女としてもこの映画で新しい魅力をかがやかせている。

 夫が帰ってくるのを見はからって、かくれんぼして待つ、子供っぽい新妻。まるで『おくさまは18歳』の岡崎友紀みたいなかわいらしさなのだ。